アトピー1度目の山場②

漢方治療をやめることにし、何とか早く改善し普通の生活に戻りたいとアトピー治療で有名な病院を人に教えてもらい行きました。

確か3時間くらい待って初診を受けたと思います。

 

診察室に入って私を見た医師は申し訳けどうちでは無理だわ、大学病院に行った方がいいそう一言言って帰されました。通うようにと紹介状を書かれたのは父が勤務する大学病院でした。

 

大学病院に行った日、父が主治医となる先生に挨拶をしておくからと皮膚科の外来に来ました。

待合スペースにいる私を遠目からチラッと見て、そのままこちらに来ることもせず去って行きました。

 

その表情にはしばらく見ない間にまた悪化したんだという冷たい目線を感じ、ボロボロの肌の私を娘だと知られるのが嫌なんだとすごく悲しくなった事を覚えています。

 

父には私を心配する気持ちはかけらもなく、家族であれなんであれ、酷いアトピーの症例の一つなんだと思います。後に父から人体実験されていたんだと気づく事になります。

 

大学病院では入院した方がいいレベルだけど特に治療としては変わらないからとステロイドの内服と最強クラスと言われる外用薬を出され、全身に今では危険と考えられるほどの量の薬を塗りました。

 

その甲斐あってか何年もかけて症状は少しずつ改善し小康状態になりました。

アトピー1度目の山場

中学2年の時に悪化したアトピーはそのまま良くなることはなく3年に進級しました。

 

受験で大切な時期なのに身体はしんどいし、夜は痒みで眠れないし、勉強どころではありませんでした。

中学3年、高校1年くらいはこのまま自分が消えてなくなればいいのにと思うほど生きてることが辛く病んでいました。

 

アトピーが悪化したら私を見て父は自分の弟で漢方医をしているMに診せたらどうだと言い始めました。

 

私は西洋医学で匙を投げられていたので、治るならなんでもしたいという思いと、医師である父が勧めるのだから間違いないだろうと叔父の病院に通い始めました。

 

そこでは徹底した糖質制限をするように言われました。おやつはもちろん、果物や炭水化物も取れず大きなストレスでした。

そして何がブレンドされているかも思い出せないデトックスのためのオリジナル漢方薬を飲むよう言われしばらく続けました。

 

塗り薬のステロイドを止めたせいもあるのか症状はみるみるうちに悪くなりました。

毒だしだから、出してしまえばきれいに治ると言う言葉を信じて私は通院を続けました。

 

体重は落ち、気力もなくなり、微熱が続く日々。学校に行けない日もありました。

微熱が続くため座っているのもしんどくなって、丸めた布団にもたれかかってボーッとしていたのを覚えています。

 

だんだんと口数も減っていきました。

後に母からあの時目が虚ろになり焦点が合わなくなっていて、本当に心配だったと聞かされました。

 

身体に溜まっている薬を排出しないと治らない、脱ステロイドをしないとこの先も一生薬と縁が切れないという説を信じていたので、毒だしが終われば治る、ここまで頑張ったんだしあと少し頑張ろう!と続けようとしましたが、もう身体が持ちませんでした。

 

痒みで夜も眠れず気が狂いそうになり、このままでは命の危険がある、アトピーが治らなくても死にはしないからと決心し、漢方治療を止め大学病院に通うことになりました。

父の家出

私は小さな頃からアトピーがあり、 物心ついた時にはもう皮膚科に通っていました。

 

酷くなってはステロイドを塗って抑えるを繰り返していましたが、そう大きく悪化することもなく誤魔化しながら過ごせていました。
 

 

中学3年の時、その状況が一変しました。

アトピーが悪化し、薬の強度を強めても炎症が治まりません。原因に心当たりはありました。大きなストレスです。
 

悪化する半年ほど前、父が家を出て行きました。

父は週の半分は私達のいる家に帰り、残りはもう一つの家という中途半端な二重生活をし始めました。


母はいつ帰ってくるかもわからない父 のために毎日ご飯を作っていました。
翌日結局帰って来ず無駄になったご飯を悲しそうに捨てる母の表情を見るたび胸が苦しくて、必死で励ましたり、笑わせるようおどけてみたり、自分の不安や悲しい気持ちを抑えていたのを覚えています。


その時私はまだ中学2年でした。反抗期のピークとも言われる多感な時期でしたが私は自分の反抗期どころじゃなくて、母、妹と三人で力を合わせて生きるのに必死でした。


父が出て行ってすぐは生き延びるための必死さが勝って自分の身体に症状が出るところに至りませんでしたが、辛さに蓋をして心身共に無理したツケがアトピーとして出ました。


炎症により微熱が続き、身体はどんどん痩せ細り弱っていきました。

 

続く…

 

証言台に立つ

裁判では父本人が傍聴する前で証言をしました。

 

裁判官に今までされたわいせつ行為、暴力、人格否定、殺すと脅されたことなどを話しました。

 

証言台に立つ何ヶ月も前から気が重かったけど、なんとか無事に話すことが出来ました。


先生に証言台に立てたら強くなれるよと教えて貰っていてましたが本当にその通りでした。

 

裁判をしたことによってあれほど大きな存在に見えて怖かった父のことが、ちっぽけな人間だったと思えるようになりました。

父のことが必死で自分を強く見せようとしているよく吠える小型犬みたいに感じました。

 

そんな風に見れるようになるなんて想像できなかったので、ほんとに裁判して良かったなと思います。

 

 

父から受けてきた酷い虐待の数々、散々傷つけられていた私は自分を無価値に感じていました。

 

父からは働かない人間は無価値、 自分の食い扶持も稼げないなら死ねと言わた時、私が生きてたら迷惑がかかって申し訳ない、死ねたらいいのに…そんな風に思いました。

 

でも先生に会ってそんな酷いことされてるんだから怒って良いんだよと言ってもらった時、そうなんだ! と思いました。

 


椿先生は父から受けたネガティブで歪んだ負の洗脳を洗い流し、きれいな心での生き方を教えてくれています。


先生に負のエネルギーを断ち切るクレンジングという儀式をしていただいてもうすぐ8年になります。


こんなにも長い間、頑固で面倒な私の間違った洗脳洗い直し作業をしてくださってるのだと思うと感謝しかありません。

 

おかげで私は元気を取り戻し、希望を持って生きれるようになっています。

父を訴える

声をあげるということで具体的にしたことは父から受けた虐待の件で裁判をしたことです。

 

裁判を起こす前、本人にも直接話しました。でも父は私にしたわいせつ行為を認めませんでした。

 

私を丸めた新聞紙で叩いたり、回し蹴りして壁に激突させたことに対して教育だと言い、自分も父から厳しく育てられたからお前たちを厳しく育てたと言い訳をしました。

 

小学校低学年の女の子を蹴飛ばして教育だ言い張っても誰も理解できません。

 

暴言や人格否定、洗脳もすごく、私は大きく歪められて育ちました。父への恐怖から起こる心身の不調は病院でPTSDと診断されました。

 

当時まだ外出が出来ないくらい心身不安定な状態で、陳述書を完成させ実際に訴えを起こすまでには長い時間がかかりました。


辛さから自分を麻痺させ見ないようにしていた虐待の詳細を思い出して陳述書を作る作業の痛みは生易しいものではなくて、何度も挫けそうになりました。


裁判は起訴してから判決が出るまでに2年強の時間がかかりました。実際に書き出し準備する期間を入れたら4年近くはかかっていると思います。

 

本人の私が進まないことに苛立ちを覚える中、椿先生は諦めないように励まし、 辛い気持ちのこなし方を教えてくれながら待ってくれました。

 

その忍耐強さと優しさは人並み外れ、私は今までに先生ほど器の大きな人にお会いしたことはありません。

 

 

椿先生には心理面でのサポートだけでなく裁判での具合的な動きのサポートもしていただきました。

 

当時お願いしていた弁護士さんは男性で私達の気持ちを理解せず、 私達を馬鹿にした態度を取ることがありました。


その事を先生に相談したら、私がその人に直接話しますと言ってご来日中の超過密スケジュールをぬって弁護士事務所に同行してくれました。

 


先生が話してくれたら弁護士の横柄な態度は一変しました。 私達が受けてきた虐待があまりに酷いので内容を話しても妄想でしょと言わんばかりに流され、信じてもらえてなかったのですが、 椿先生が弁護士に会ってくださってからその態度が変わりました。

 

私は弁護士が偉いものという思い込みから言われるがままで、自分が雇っているのに馬鹿にしてくる弁護士に文句も言えませんでした。

 

でも椿先生は弁護士に対して全く動じる事なくはっきり意見を言われ、逆に弁護士が椿先生を前にタジタジ、緊張して背筋が伸び私達の前では見せたことのない態度を見せました。

 

今まで舐められていたんだなと思いました。

そして弁護士を前に特に緊張もされていない先生を見てカッコイイなと思いました。

 

こうして先生からたくさんサポートをいただき自分一人では挑むことが出来ないような壁を越えることが出来ました。

モンスター化

私は暴君のような父のことを恐れ大人になりました。幼稚園の頃虐待の事実を人に言ったら殺すと脅されました。

そしてそれを容易く可能にする武器が家には溢れていました。

 

例えば刃渡り30センチ以上あるナタとか、医療用のメスとか、その他にも木刀とか、モデルガンとか、逆上したら殺されると感じて必死で機嫌を損ねないように努めていました。

 

家にある凶器の話は誰にもしたことがありません。それでも椿先生は私が父について一言も伝える前に私の生きづらさや体調不良の原因が父にあると見抜かれました。

 

そして私はそれを越える方法を教えていただき、父からの虐待に向き合ってきました。

 

 

向き合って行く中で起きた心境の変化で一番大きかったのがもう真実を話していく!と思えたことです。

 

今まで家に武器があることも、父が家で母を怒鳴り散らし死ねと言ってることも、愛人を作りその人を妊娠させそうになったことも、家族を捨てて家を出て行き週に一度しか帰ってこなかったことも、誰にも言ったことはありません。

 

訳ありすぎる家庭を人に知られるのが恥ずかしかったし、何より患者さんからの信頼は得ていたように見えた父親(見せかけてただけかもしれませんが…笑)のイメージを崩してはいけないんとずっとずっと黙ってきました。

 

私が言わないから父の悪事はバレなくて、バレないから許されると思って父は暴君のモンスターと化していったのだと思います。

 

暴力肯定主義を世の中に公言しちゃうくらいだからモンスター素質はバリバリあるのですが、私が声を上げてたら少しはマシだったかもと言う思いは捨てきれません。

 

そんな思いがあるから私はもう黙らないと決めました。言うことによってすごく軽く、楽になりました。

元気になるまでの道のり

私の育った家庭は父が母を暴力や暴言で傷つけ、そして娘である私と妹への虐待を続ける劣悪な環境でした。

 

父は口が悪くて話す内容は人を馬鹿にした内容ばかりだし、 虫の居所が悪いと夜どうし母に当たり散らし夜中に武器を持ち出して母を追いかけ回すこともありました。

 

小学生の頃聞いた母の逃げる足音や悲鳴は今でも忘れられません。そんな死の恐怖を絶えず感じていたから暴君である父に逆らえる人は誰もいませんでした。

 

私はとにかく家にいるのが苦しくて、感じる心を麻痺させることで耐えていました。

人には言わずにいたけど、生きることを諦めかけた時期もありました。

 

診断名のつかない体調不良に家庭の不仲、お祓い受けた方がいいんじゃない?と人に言われるくらい出口のない暗闇で苦しみ何かにすがりたい思いでした。

 

実際よく当たると言われる占いなどに行ったこともあります。

でも体調不良は家族仲が悪いのが原因だと教えられることはあっても、その改善方法を教えてくれる人はいませんでした。

 

 

椿先生に出会ってその状況が変わりました。自分が越えなければいけない課題のハードルは高く辛い時もありますが、先生にアドバイスをもらって取り組めば確実に元気になれます。

 

医師に匙を投げられた酷いアトピーも今はステロイドを使わなくてもいいくらいきれいになりました。

 

病気の大半はエネルギーが原因と言われます。

医療では治せない体調不良の根本解決法を教えてくれる椿先生に出会えてなければ私は元気になることは出来なかったし、父に埋め込まれた否定的で歪んだものの見方を変えようという努力をすることはなかったと思います。

 

昔の私を知っている人は別人みたいと言います。私も大きく変わったと思える部分もあるし、同時にまだ変われていないと感じる部分もあります。

 

私の頑固により変わりきれていない部分を今も矯正中です。